4月号ブログ:車座で繋ぐ「拳の心」 — 三十年前の約束
新年度の「小さな再開」
桜の季節が過ぎ、道場にも新しい風が吹く四月。 千葉花見川道院では今月から、修練の合間に五分から十分の「法話」を正式に再開しました。
正直に言えば、これまでは二時間の修練。技法の指導に熱中するあまり、つい「あと一本、もう一度」と時間が過ぎ、法話を後回しにしてしまうことが多々ありました。しかし、今期は違います。
アラフィフで初段受験という大きな目標に挑む拳士。そして、今までバスを乗り継いで日曜日の修練に通ってくれていた東邦大学の学生が、「部活動だけでなく、先生の道院にも所属したい」と二十歳で兼籍を申し出てくれたこと。彼らに、試験のための暗記ではない、金剛禅の「生きた知恵」を届けたい。その想いが再開のきっかけです。
花見川道院流「車座」のライブ感
当道院の法話は、全員で円になる「車座」スタイルです。導師である私も皆と同じように胡坐(あぐら)をかき、同じ目線で語り合います。
ところが、いざ始めようとすると、熱心な拳士から「先生、さっきの技ですが……」と質問が飛び、結局、読本を広げる間もなく、座りながら技の解説が始まってしまう。脱線と言えば脱線ですが、私はそれでいいと思っています。「技の理(り)」を解き明かすことは、そのまま「心の持ちよう」を説くことに繋がっているからです。
無意識のルーツ:恩師の言葉
「脱線ばかりだな」と苦笑いしていた私ですが、ふと思い出した光景があります。
それは三十年以上前、私が小学生で入門した当時の道院長のご自宅にお邪魔した時のことです。 「先生は、道場ではほとんど法話をされませんでしたね」 若かった私が気軽にお尋ねしたとき、先生は穏やかにこう仰いました。
「俺は、技の合間合間に法話をしていたぞ」
その言葉の真意が、今になってようやく腑に落ちたのです。
「教科書」の行間を埋めるもの
現在、拳士が手にする「読本」は、金剛禅の教えが洗練された形でまとめられた素晴らしい教科書です。そこには私たちが目指すべき高潔な理想が説かれています。
私の役目は、そのきれいな言葉の「行間」にある、先達たちが守り抜いてきた「熱」や「納得感」を、自分の言葉と体を通して注ぎ込んでいくことです。挑戦を続ける大人から、志ある二十歳の若者まで、道場に集う人々に必要なのは、単なる知識の詰め込みではなく、お腹の底にストンと落ちるような「気づき」なのだと確信しています。
「人づくり」への信念
結局のところ、規則や形式に囚われるのではない。そこに「人」がいるからこそ、道場は成り立ちます。開祖が仰った「人、人、人、すべては人の質にある」という言葉。私はこの初心に立ち返り、技術を磨くプロセスを通じて、一人ひとりの可能性を引き出す「人づくり」に邁進していく決意です。
新年度。道場という「サードプレイス」で、心地よい汗を流し、共に語らう。三十年前の恩師から受け取ったバトンを、今度は私が車座のなかで、次世代へと手渡していきたいと思います。
一歩ずつ、共に歩んでいきましょう。 今月もよろしくお願いいたします。


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