15秒の片鱗から始まった憧れ
思えば、私の感性の根底には、若い頃から夢中になって聴いたビリー・ジョエルの存在があります。 かつてマウントレーニアのCMで流れていたわずか15秒のピアノの旋律に、『アレンタウン』の力強い鼓動を感じて胸を熱くしたのを今でも鮮明に覚えています。
単なる「売れ線」ではない、彼にしか鳴らせない「伝家の宝刀」とも言えるコード進行。たとえば『Leave a Tender Moment Alone』のハーモニカが、不安定な響き(sus4)からスッと着地するあの瞬間。あるいは、吉田拓郎が『やさしい悪魔』で聴かせる洗練された和声や、荒井由実時代のメジャー7thが醸し出す、あの独特の浮遊感。
それらは理論を超えて、一ファンとしての私の心に深く刻まれました。音楽が迷いの中から「解決(ケーデンス)」を見つけ出し、あるべき場所へ収束していくあの美しさは、私にとって人生の教科書のようなものでした。
柔法にみる「収束の美学」
この音楽的な「解決」の美学は、少林寺拳法の変化技の世界にも、驚くほど鮮やかに通じます。
たとえば、逆小手を仕掛けた際、相手が必死に抵抗し、その力が逃げようとする。そこから流れるように「逆手投げ」へ、あるいはさらに「龍投げ」や「逆引天秤」へと変化していく……。 これは、メロディが次にどこへ向かいたいかという欲求を熟知し、最も美しい着地点(トニック)へ導いていく作業と同じです。
私が得意とするのは「閂(かんぬき)」の流れです。 ここでは詳述しませんが、骨の構造を物理的に噛み合わせ、まさに扉を閉ざす横木のように「不動の状態」を作り出す。相手がどう足掻こうとしても、私の描いた「必勝のフォーマット」へと吸い込まれるように収束していくあの感覚。それは、複雑な不協和音が完璧な和音に解決したときのような、抗いようのない「理合(りあい)」の美しさなのです。
「鈍くさい」という名の財産
ブルース・リーの名言に、「一万種類の蹴りを一度ずつ練習した男は怖くないが、一つの蹴りを一万回練習した男は恐ろしい」という言葉があります。日本にも、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす(宮本武蔵)」や「一芸は道に通ずる」という言葉がありますが、これらはすべて「一つのことを掘り下げることの凄み」を説いています。
実を言えば、私は決して先天的な天才肌ではありません。 小学5年生で入門したものの、白帯の期間は1年以上。同期が次々と色帯に変わっていく中、私はずっと真っ白な帯を締めていました。ようやく初段の許しを得たときには、もう高校生になっていました。
しかし、この「鈍くささ」こそが、今の私の財産です。 最初からできてしまう「神童」は、なぜできるかの論理を飛ばして正解に辿り着くため、できない人の苦労が分からず、指導という現場では立ち止まってしまいがちです。
私は「凡才」だったからこそ、一ファンとして音楽を聴き込み、一門下生として技を一つひとつ解体し、同じ技を何万回と繰り返す中で「なぜ掛からないのか」を分析し続けてきました。 私が今、学生や門下生に伝えたいのは、センスに頼る一瞬の閃きではありません。何度も技を外され、逃げられた経験から導き出した「論理的な地図」です。
「十で神童、十五で才子」と言われますが、そこを過ぎた私たちは、地道な研鑽によって「後天的な天才」を目指せばいい。 不器用な正解の中にこそ、誰にも壊せない理合が宿ります。かつての私のような「凡才」たちが、迷わず技の解決(トニック)へと辿り着けるよう、今日も道場で、私なりの「閂」を磨き続けています。


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