今の時代、テレビやネットを開けば「昭和の非常識」「ハラスメント」「タイパ・コスパ」という言葉が溢れています。かつての縦のつながりや、地道な礼儀作法を「古いもの」「非効率なもの」として一括りに切り捨てる風潮が、たしかにあります。
若い皆さんが、「礼儀作法を身に付けて、社会に通用する自分になる」と聞いたときに、もしかしたら「上の人に気に入られるための、古い昭和の処世術(おべっか)を学ばされるのではないか」と、少し身構えてしまう気持ちもよく分かります。
しかし、開祖が「人づくりの道」とした少林寺拳法を学ぶにあたり、「漸々修学」の最初の一歩として、技の修得よりも先に礼儀作法を置き、人を育てることを重視されたのは、そんな小手先の世渡りテクニックを教えるためではありません。
私たちが少林寺拳法を通じて養っているのは、誰かの顔色をうかがう処世術ではなく、「どんな時代、どんな場所に行っても、他者と深く確かな信頼関係を築くことができる『人間性』そのもの」です。
「形(かたち)」から入る心の調御
少林寺拳法が目指す「人づくり」とは、誰かを都合の良い枠にハメたり、特定の考え方を植え付けたりする「洗脳」のようなものとは、根本から真逆のものです。
私たちが道場で、先ず履物を揃え、合掌礼を交わし、作務(掃除)をするのは、誰かに強制されたルールに従う従順なロボットになるためではありません。むしろ、「自分の心の手綱を、誰の手にも渡さず、自分で握り直すため」です。
世間ではよく「自分の機嫌は自分でコントロールするものだ」と言われますが、これは言うほど簡単なことではありません。私たちは日々、周囲の環境や他人の言動によって、簡単に心が揺れ動いてしまう弱い存在だからです。相手の態度が悪ければこちらも不機嫌になり、イライラしていれば履物を雑に脱ぎ散らかしてしまう。これは一見、感情に素直に生きているようですが、実は「外側の状況」に自分の心を100%支配され、コントロールを奪われてしまっている状態です。
だからこそ、私たちは先ず「形」から入るのです。
どれだけ外の世界で嫌なことがあろうと、目の前の相手がどのような態度であろうと、私は私の意志で、凛として履物を揃え、敬意を持って合掌礼の形をとる。
これは、「周りの状況がどうであれ、自分のあり方は自分で決める」という、内なる心を静かに調御(ちょうぎょ)するための、最も毅然とした自立の訓練なのです。
「人を変えることは難しいが、自分を変えれば人は変わる」という言葉の真意もここにあります。 小手先のコミュニケーション術で相手を変えようとコントロールすれば、相手はそれを押し付けと感じて反発します。しかし、こちらがただ己の心を調御し、崩れない美しい形のまま礼を尽くすとき、その一切の計算がない佇まいに影響されて、相手の心も鏡のように自然と和らぎ、結果として変わっていくのです。
基本という名の「器」がなければ、その先はない
よく武道の世界では「先ず基本が大切だ」と言われます。 しかし、多くの人は基本と聞くと、突きや蹴り、受けといった「技の形」のことだけを思い浮かべがちです。
本当の基本は、もっと手前にあります。 道場で履物を揃え、敬意を持って合掌礼の形をとる。作務に汗を流して己の心を調御する。この「礼儀作法」という日常の形こそが、すべての基本であり、あなたの人間性を形作る「器(うつわ)」そのものなのです。
テレビなどで活躍されている林修先生が、かつて教育論の中で非常に興味深いことを仰っていました。 「自国の言葉(国語力)という土台が身についていない人間が、どれだけ形だけ語学留学をしたところで、中身のある深い思考はできるようにならない」という主旨の指摘です。
これは、私たちが歩む少林寺拳法の道にも、完全に当てはまります。
「礼儀作法」という人生の国語(基本)を学び、自分の器を大きく育てることをせず、ただ「技のテクニック」や「小手先の処世術」だけを追い求める。それは、土台のないまま海外へ飛び出す「語学留学の矛盾」と同じです。どれだけ流暢に技を語れたとしても、それを扱う人間の中身が空っぽであれば、社会という厳しい現場に出たときに、誰からも信用されず、何も生み出すことはできません。
開祖は、まさにこの本質を突いた鋭い言葉を遺されています。
「小さいことができない者に、大きなことはできない」
道場の玄関で靴を揃えること、目の前の相手に真っ直ぐ礼をすること。そんな身近な「小さいこと」すら自分の形にできない人間に、その先のステップなどあろうはずがありません。
いま世間では、いかに時間を短縮し、効率よく結果を出すかという「タイパ(タイムパフォーマンス)」ばかりが叫ばれます。しかし、人生の本当のパフォーマンスとは、費やした「時間の短さ」という物差しではかるものではありません。「自分がどこを目指し、どのような人間(あり方)に至るか」という、目的地への深さで決まるものです。
どれだけ手っ取り早く応用や技をかじっても、人間としての器が小さければ、そこで得られる人生の果実も小さなもので終わってしまいます。一見、遠回りに見える日常の小さな作法こそが、あなたの器を最大に広げ、最も高い目的地へとあなたを連れて行ってくれる唯一の道なのです。
焦る必要はまったくありません。 まずは今日、この道場で履物を揃えるという最も身近な基本から、あなたが一生をかけて目指すべき、揺るぎない人間の「形」をじっくりと作っていきましょう。
だからこそ少林寺拳法は生涯修行なのです。



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